「奪うのでなく与える心」  07.09.30
                   ヨハネの手紙一 3:11〜18

 エゼキエル書16章には、主なる神さまのイスラエルに対する御心が、
ある状況に例えて描かれています。必要とされず、野に捨てられて
いた赤ん坊に目を止め、「生きよ」と繰り返し語りかけ養い育てる人の
ように、神さまはイスラエルのことを思っておられるというのです。
 主なる神さまが「生きよ」との言葉を向けるのはイスラエルだけでは
ありません。
 私たち一人ひとりにもそのように向き合ってくださるお方です。
 人間同士の間では、忘れられ、見捨てられるようなことがあろうとも、
 主なる神さまから「生きよ」と繰り返し語りかけられている。
 それが私たちです。
 十戒には「殺してはならない」との言葉がありますが、聖書は「兄弟を
憎むものは、皆人殺しです」と言います。イエスさまは、腹を立てること、
馬鹿と言い、愚か者と言って軽んじることは、人殺しと同じ裁きを受けると
言いました(マタイ5:21)。聖書は、人の心に「ひそかな殺人」をする罪が
あることを、見抜いています。そのような罪人には、永遠の命はありません。
 しかし、そのような罪人にも「生きよ」との言葉が響きます。
 そしてこの言葉のゆえに、神さまはイエスさまの十字架と復活の出来事を
起されました。
 「滅びではなく、私の下で生きよ」との御心が、十字架と復活を起しました。
 そうして、見捨てられ、野に投げ捨てられても仕方のない罪人の罪を許し、
永遠の命に生きる道を開いてくださいました。そんな神さまの大きな愛の
うちに包み込まれているのが、私たちです。
 このご愛に目を注ぐ時に、ひそかな殺人の根となる心から解き放たれて
行きます。 憎しみでなく、愛する者として進む道が見えてきます。
周囲の人に「生きよ」との神さまの言葉を届けるために心を砕きます。
自分の命(時)を、周囲の人のために用いるようになります。
 それが、神さまの愛に包まれている者の自然な姿でしょう。
 「殺してはならない」という神さまの言葉は、「隣人を愛しなさい」、
「人を生かすものでありなさい」という言葉に言い換えられます。